蒼き鷹第三章第二十九話

均衡は崩れつつある、いやもうすでに崩れてしまっているのかもしれない。
ウルフは己が腰掛けているのは泥の上の王座だという事を痛いほど理解している。
完全なDの傀儡であった豊穣と違い、そうなるであろうと分かっていて利用される振りをして利用した。
その事をDも知っている。
ウルフはぬめりと口角を釣り上げコンピューターの電源を落した。
部屋には静寂が訪れる。
長く抑圧されていたせいで凝縮された不満が鬱屈し氾濫する新しい時代。
夜明けはまだ遠いというのにお祭り騒ぎだとウルフは腰を挙げシンクへと足を向けロボットではなく自ら冷蔵庫の冷水を取り透明なグラスに傾ける。
それは規則正しく並んだ結晶で構築されるグラスを無色透明に侵食する。
氷を浮かべれば光は屈折した。
軽やかで涼しげな音が溢れ足元に零れた。
唇にグラスを着け水を飲む。
咽喉の粘膜が気付かぬ内に腫れぼったくなっていた。
もはやどの民族性も関係がなく、それらは旧人類と共に滅び新人類となった種の遺伝子のみが次世代に伝えられる夜明けを望んでいる。
もう李功も劉邦も眠っただろうかとグラスをシンクに置いた。
残った水は緩やかな円を描き排水溝に吸い込まれる。
狂気を生き延びるために逆らわず流されるだけの大衆を幾人も見てきたのだ。
そもそもが正常であった社会など歴史上に存在はせず、狂っているからこそ人間社会なのだとウルフはコンタクトレンズを外した。
眼底の血管が透けそうなほどの青い瞳に映る景色は色淡く眠る前に毎夜見るこの色をウルフ自身嫌悪している。
机に戻り椅子に腰を下ろすとコンピューターの電源に手を伸ばしたがしばし迷い頬杖を付く。
内側に沈殿しているのは明るい情熱などでは決してない。
幼い頃を思い出しウルフは苦笑した。
まだ咽喉は乾いているが水を飲むのは気だるく腰を挙げるのを嫌い両足をだらしなく投げ出し背もたれに深く背中を預けた。
軋まないはずのそれは折れそうな鈍い音を立てる。
散らばった感覚を拾い繋ぎ合わせれば欠片は完成するのだろうか。
幼き頃、まだ人間を信じたかった希望を絶望に塗り替えられ罵った悪魔に自分はなろうとしているのだとウルフはコンピューターの電源を入れこれまでに処刑した人間のリストを仄暗い部屋に映した。
これからも増えるであろうそのリストを眺め、かつて小隊長であった頃の仲間をクーデターのために切り捨てた事を思い返しウルフは咽喉の奥で鬱屈した笑い声を挙げる。
後任にジャッカルを選んだのは正解であり、彼は上手く来るべき新時代のために本国での民族浄化を進めている。
男女隔離政策は完全に成功だ。
いずれ全ての旧人類は緩やかに絶滅し淘汰される事だろう。
経済が崩壊し内乱が起こる西欧諸国を侵略するのも容易いだろうが準備だけはしておかねばならないとウルフは片方の靴を脱ぎその足を椅子の上に乗せた。
その膝を抱え背中を丸め頬を乗せウルフは静かに瞬く。
メールが一件来ていた。
開けばそれはジャッカルからのもので今日の日付までの隔離政策の進み方の報告だった。
彼が連れて行ったイールは望んでいた本国での生活を絶望の色濃い目で見ているのだろうと予想しウルフは可笑しさが込み上げて来るのをこらえきれなくなる。
思想の違いというたった一つの不確定要素が各人の未来を決定してしまったのだ。
これほど滑稽で愉快な事柄はない。
返信は明日で良いだろうと再びウルフはコンピューターの電源を落とし眠ろうかと寝室へ足を向けたが動きを止める。
触れるドアノブは冷たく回すのをためらった。
廊下は出れば電気は点くがそれを異常だとウルフは頭の片隅に感じてしまう。
馬鹿馬鹿しさを振り切るためノブを回し廊下に出れば一瞬で明るく染まった。
KRはどうせ起きているのだろうとウルフは立ち止まったまま眉を寄せる。
部屋に行くのはためらわれた。
幼い頃抱いた羨望と憎悪を情景と勘違いをしたまま泥の王座に腰を下ろしたのだ。
「本当は知っている。」
ウルフは呟き空腹を感じた。
夜中、開いている店に食べに行けば良い。
KRを誘おうかと考える自身にただ苦笑する。
彼は友人ではなくかつて切望した人間のクローンだからと飼っているだけなのだ。
玄関へと行きウルフは外へと出た。
夜らしく照明は落され夜中の演出がされている天井には作り物の星が浮んでいた。
プラネタリウムを作り出したとしてそれに感動を覚える人間はいない。
ありふれた光景に涙する純真さを誰もが失っている。
大衆は皆自分の足元を見る事に忙しいのだ。
そのくせ自分達が踏み付けている者が何なのかを決して理解しようとはしない。
救いの手を差し伸べられようが憐憫に晒される事を好み自ら被害者の地位にしがみ付くのが大衆だ。
その彼らは前を見る事すら拒否し過去から未来まで連続する現実ではなく、空想の直線上にしか存在し得ない桜色の未来が彼ら自身の足元に唐突に訪れると妄執している。
桜色の未来など歴史上のどこを捜しても存在すらしなかったのに彼らは目を瞑り耳をふさぎただ待ち焦がれ不平不満ばかりを蓄積させていく。
「違うのは思想だけだ。どの思想を持っているかが人間を決定する。時代も人間も思考に決定されるのに、生きたとおりに考える愚者の方が数が多い。」
小さな独り言にウルフは瞬いた。
コンタクトレンズは外したままだ。
ズボンのポケットに両手を突っ込み淡い景色を何気なく眺める。
静かな夜は己の人生を振り返りそうで怖かった。
不安を感じるのは常に過去に対してのみだ。
その積み重ねが現実を作る。
誰かに会えば良いと考えても誰に会う事もなくファーストフードの店に着く。
奥まった席を見れば空いておりそこに腰掛け注文をした。
深夜でも店の中は人で込み合っている。
遺伝子操作型人間か、遺伝子設計型人間か、どちらでも目的は同じなのだろうとウルフは自らの手首に視線を落とす。
製造番号はクローンを作った時に消し去った。
そこには何の文字も刻まれていない。
だが確かに製造番号は存在する。
一個人が記号化した数字に支配されるのは旧人類も遺伝子設計型人間も遺伝子操作型人間も関係なく、そうなのだ。
数値化された人格は人間性を失い記号としての数字の羅列として端数が出れば省略される、そこに人間としての存在は認められない。
それが近代社会を構築する考えであり最大多数の最大幸福なのだろう。
無言で目の前に置かれたハンバーガーを夕食にこれでは少ないのではないかと思ったがウルフは特に気にする事もなくかぶりつく。
警護を付けた方が良いとは知っているがそうするのはどうしてか愚かしく思えてしまうのだ。
大して上手いとも思わないファーストフードだが時折無性に食べたくなる時がある。
口の端についたトマトケチャップを親指の腹で拭いウルフは自分が感傷に浸りたがっているのだと瞼を水のように青い瞳に食い込ませた。
挽肉となったかつての友人を想いウルフはハンバーガーを咀嚼する。
悪魔だと罵ったあの頃の自分は世界の全てを憎悪した、そして今でもそれは変わらずあの頃の人間を殺してしまうかのように旧人類を絶滅させようとしている。
ほんの少し、遺伝子が違っていればたった一人心許せる友人は死にはせず、ウルフもこうしてDに接触し必死になり泥の王座を目指さなかっただろう。
極わずかな塩基の違いが運命を翻弄し蹂躙した。
欠けた歯車がぴたりと収まった世界であったならば淡白ではなく濃厚な色をウルフに見せてくれたのだろうか。
たった一欠片の違いが時代のうねりを作り出し悲しい音色を立てながら顔のない軍隊蟻の行進を見守っているのだ。



いつの間にか三人がカスィミのいるアトリエに集まった。
かといってカスィミ以外の二人は絵を描くでもなく、作品を仕上げる彼の邪魔をするように話しかけたり表面の破れた茶色い一人用のソファに腰掛け本を読んだりしている。
「そこまでかりかりする必要はないでしょう。」
からかうようにカスィミは言った。
言葉を聞いた途端軍震はむっと黙り込み腕組みをして唇を尖らせる。
子供っぽい仕草に彼がまだ思春期を抜けていない青年になりかけの少年だと はのどの奥をくつくつと鳴らす。
青年から大人に変わったと自分自身思い込んでいるカスィミを軍震は滑稽な子供だと認識している。
「思想を持つのは大事だけどさ。」
横から別の青年が口を開いた。
彼が読んでいた本を拍手をするように閉じる。
真新しい本に挟まれる栞は細工もない紙で出来た、元から購入した本に挟まっていただけの代物だ。
それを後生大事に使い続ける彼を軍震もカスィミも馬鹿げていると言い張る。
確かにそうだがくだらないものでも使い続けていれば大切にもなるのだ。
「遺伝子操作型人間はまともな教育を受けさせてもらっていない。ウルフや経済といった人間は例外だ、奴らは読書を好んでいるからさ。」
「あー、まあ本を読むのは大事だよね。でもウルフや経済やその他頭の良い遺伝子操作型人間と話しても君の思想は受け入れられそうにないなぁ。おっと気を悪くしないでくれよ。僕は僕の思想に乗っ取って話しているだけだからね。君の思想は遺伝子設計型人間の中でも特別だと言いたいわけさ。」
軍震は沈黙を守ったままカスィミに反論はしない。
頭の中で余計な事柄を渦巻かせているのだろうとカスィミは隣に座る青年の膝に乗せられた本へ一瞬だけ視線を滑らせた。
死に至る病。
口角を釣り上げカスィミは軍震へと視線を戻し大げさに両手を広げ身振り手振りを加え街頭演説のように声のトーンを落とし言葉を発する。
「僕らは遺伝子によって三つの種に分類されるんだ。思想によっての分類は種としての分類に該当しない。もちろん君の考えは素晴らしいと僕は思うよ。これまでの旧人類の歴史を見るにあたり僕達、そうだな、ニーチェの言うところの超人になるにあたって旧人類と同様の思想を持っていてはいけないとは誰もが理解をしている。多分こう考えているのはウルフ達賢い遺伝子操作型人間だってそうだ。だからと言って種族間での淘汰がなくなるわけじゃない。思想は自然界には繁栄されないんだ。僕達第三の性を持つ。」
「俺は完全に男だぜ。」
カスィミは咳払いをし可笑しそうに笑う青年をねめつけ、再び演説を開始する。
「まあ平たく言えば遺伝子の羅列が三本ある完全な人間としての遺伝子設計型人間は他の種の人間と交われないんだ。いくら思想が立派だからといってもこれでは厄病や環境の変化によって。」
「知ってる。」
再び話の腰を折られたカスィミが眉を寄せたのを見、本を片手の青年はこらえ切れないといった風に笑い出した。
その笑い声が耳障りでカスィミは唇を歪め投げ出していた両足を戻し踵で彼を軽く蹴飛ばした。
それを子供っぽいと彼はますます笑い声を広げる。
沈黙するのは軍震だけだ。
不機嫌に唇を曲げる軍震に笑いながら青年はソファから腰を挙げ接近しその肩に手を乗せた。
振り払わずに軍震は眼球だけを上向かせ彼を視界に捕える。
カスィミは演説を中止させられたばかりか無視をされあからさまな腹立たしさを表情に浮かべている。
青年が口を開く前に軍震はカスィミへ視線をやった。
「お前の言いたい事は良く分かる。もちろん、そうだと理解はしているが俺の思想はそれとは異なっているんだ。丁寧に説明をすれば理解してもらえるはずだ。虐げられている下層民の遺伝子操作型人間にならば。」
「お前は希望を与える救世主になりたいのかよ、軍震。神話になりたいなんて滑稽だぜ、Dみたいだ。」
「新人類だと自負するのであればこれまでの旧人類と同様の思考を行ってはならない。それでは旧人類と同じ歴史を俺達が繰り返す事になる。思考の誤りを。」
「それは仕方がないさ。」
カスィミが腹いせのように軍震の言葉を遮った。
軍震は眉を寄せるがカスィミは皮肉っぽく口角を釣り上げ肩をすくめた。
そして人差し指で軍震を指しぬめりと微笑する。
「僕達が受けた教育を思い出してごらんよ。僕達を教育したのは誰か。」
「旧人類の優秀な教師様達だ。」
軽快に笑いながら青年は言った。
軍震はますます不機嫌を露とし、腕を組むと青年からもカスィミからも顔を背け唇の裏側に反論を貼り付けた。
青年は軍震の肩から手を離しわざとらしく片手を広げもう片方の手を腰にやった。
片足に体重を掛ける作られた体勢に軍震の唇は酷く歪む。
「思想っていうのは中々変えられないものなのさ。知ってるだろ。で、教育とは洗脳だ、つまり俺達は感情すら教育されて成長した。これが思想の大部分を占めているから旧人類と同様の感情と思考回路を持ってしまうのはもはや避けられない事実であり仕方のない事なんだ。」
「だからと言って諦めるのか、パキャー。」
軍震は瞬かない険しい目をしパキャーを睨んだ。
呆れたような溜息が軍震の鼓膜を響かせる。
わざと溜息を吐いたのは だ。
「諦めろなんて誰が言いましたか。諦めるんじゃなくて思考を変えるには時間が掛かるって事だよ。ちょっとづつ教育を変えていかなきゃならない。それは幾世代にもわたるかもしれない。ま、僕達の世代で全員を変えるのは無理かもね。でも僕達は旧人類の歴史に学び似た過ちを犯さないって言う選択肢が与えられている。」
その台詞に軍震は納得したのか否か、曖昧な表情を浮べ口を閉ざした。
カスィミはパキャーと顔を見合わせ互いに苦笑し肩をすくめた。
そしてカスィミは止まっていた筆を再び動かし始める。
一面暗色に染められたキャンパスに沈む黒に極めて近い灰色。
何を描いているのかパキャーは尋ねず先ほどまで読んでいた本へ目を向け、すぐに軍震へと顔を戻し彼の両肩をがしりと掴むと幼子をあやすような手付きをした。
からかわれているとすぐさま察した軍震はパキャーの手を払い頬杖を付いた。
「何故彼は分かってくれないんだろう。思考さえ変えれば種の違いさえ超え、新人類となる事が出来るというのに。彼の子孫が繁栄出来ずとも彼自身は新人類の仲間入りを果たして新しい時代を構築するための土台に組み込まれるのに。」
遺伝子操作型人間に理解してもらうには難しいのだろうかと軍震は悩み、かといって主席となったウルフと直接顔を合わせる事も叶わず遺伝子によっての分類を歯痒く思い目を伏せた。
パキャーは再びソファに腰を沈め両足を投げ出しただらしない格好となり本を開く。
栞が一番最後のページに挟まれた。
「新時代の幕開けはそこまで迫っている。もはや旧人類の栄光はなくどちらの種が地球を支配する新人類となるのか、争いは始まった。神はついにサイコロを振ったんだよ。軍震、君はどちらに付くつもりなんだ。思想が種族の壁を取り払うというのならば。」
軍震はひたすらに絵筆を真剣な面持ちでキャンパスに滑らせるカスィミへ視線をやり瞬きを忘れた。
さして変わらないだろうという言葉が咽喉の奥に引っ掛かる。
パキャーの意識は完全に文字列の隙間に埋め込まれた。
軍震はパキャーだけに焦点を当てる。
「俺がどちらに付くかは神のみぞ知る。遺伝子により区別をつけようとする愚者と共にありたくはない。いずれ思考が遺伝子に追いつく事が出来るのであれば俺は歴史の土台となれる事を栄光に思う。」
「それが君にとっての誇りってわけか。僕はどうでも良いね、種族間の争いなんて。僕は僕の作品が後世に伝えられればそれで満足だ。この自己満足こそが幸福だと感じる事も教育によって洗脳された事柄なんだろう。それなら僕達は何を得られれば新人類として人を超えた存在になれるのだろうか。」
「それは旧人類が考えも及ばなかった新しい思想だ。新しい考えだ。それこそが人類の夜明けにふさわしい。旧人類を超えた存在にならなければ俺達は俺達自身が新人類だと名乗りを上げられない。資本主義と社会主義の狭間の、ユートピアはそうでなければならないんだ。」
軍震の熱弁をカスィミは笑わなかったがパキャーは肩をすくめ苦笑を頬に広げた。


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小説総合目次
連載中→ 蒼き鷹第一部目次 蒼き鷹第二部目次 蒼き鷹番外編目次 チェレンコフの光目次 Texas Prison目次   
完結→ 優等生は不良の性的奴隷目次 パラサイドノイドあるいはセックス依存目次 流刑少年目次 ぺぽぽ目次 カラスが羽を広げるとき目次 恥辱の館〜淫虐の性奴隷〜目次 ストーカーの愛奴は女王様目次 SMごっこ目次 見捨てられた僕はセックス依存症目次 東京都市目次 裏返しのfriend目次 おもひきず目次 ソニー・ビーン目次 少年スレイブ目次 新宿ボーイズ目次 光と菊蔵のスプラッター目次 短編小説目次
連載停止中→ 紅蓮の王国目次 少年アンダースラム目次


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