ウェルを迎えに行くと一人の研究員に見張られぼんやり肘を付き椅子に腰掛けている彼が視界に入った。
実験結果の誤差を見詰めている緑の瞳に人間らしさは感じられない。
部屋に入り迎えに来た事を告げると研究員から遠まわしな嫌味を言われた。
それを右から左へと聞き流し春菊はウェルの肩を叩いた。
仏頂面でウェルはわざと音を立て、椅子から腰を挙げ、データを保存したチップを掴むと研究員へ目も向けずに春菊に先立ち部屋へと足を向けた。
エレベーターを使い、住んでいる階に戻れば人工の太陽は電源を落とされ代わりに人工の月と星々が小汚いネオンのように輝いていた。
作り物の昼と夜にウェルはあからさまに嫌な顔をした。
マンションに戻るとエムがいるはずの二階へと目をやった。
トレーニングをするのかと聞かれウェルは無言で首を縦に振った。
トレーニングウェアに着替えるためにいったん寝室へと行った。
そこでウェルは初めて春菊が負っている怪我に気づく。
枯葉のように縮れ、傷口に付着する血液が痛々しい。
「どうしたんですか。」
着替えをしながらウェルは春菊の頬を指差した。
ガーゼに染み込んだ血液が固まっている。
苦々しく春菊は唇を歪め、頬を押さえた。
ウェルから顔を背け突き放すように言う。
「なんでもない。」
「腕も。血が滲んでいますが。」
ウェルの指が滑らかに下る。
指し示された場所はフリークスから打撃を受けた箇所。
春菊は腕へと手を伸ばした。
やはり骨にひびが入っているのか、鈍い痛みが腕を駆け上り脳髄を突き刺した。
包帯に滲んだ血液が掌に付着した。
「何でもないと言っているだろう。」
ふさがっていない傷口に眉をひそめ声を荒げた。
苛立ちが春菊の内側で膨張し、執拗に咽喉元へと競りあがってくる。
振り切るように小さな椅子に腰を下ろし書類袋を開いた。
終わらなかった分へと目を通す。
冷たい目でそれを見ていたウェルの唇が動く。
「武器は戦争の重要な要素ではあるが、決定的な要素ではなく、決定的な要素は物でなくて人間である。力の対比は軍事力および経済力の対比であるばかりでなく、人力および人心の対比でもある。軍事力と経済力は人間によってにぎられるものである。」
春菊の眼球が動く。
それは毛沢東選集第二巻に載せられている言葉だ。
虐殺、弾圧、そして侵略により数多の人命を奪った社会主義国家を建国した男の言葉だ。
瞬きを繰り返し返答に困る春菊を馬鹿にするかのようにウェルの目の端が小さく動いた。
「毛沢東の言葉です。中華人民共和国を建国した方です、知っているでしょう。あなた方も人間を物として扱いすぎているようですので僕なりの忠告のつもりですが。」
春菊の視線がウェルの唇の動きを追う。
空調の音が一瞬止まった。
静かだったそれは何怪物を巻き込んだのか、金属が壊れるような音を出し回り始める。
汗に湿った手で書類を机に整頓して置き、椅子から腰を挙げると春菊はウェルへと近づいた。
ウェルの肩がわずかに強張ったがその目には冷淡な色が称えられていた。
「それは大量殺戮兵器の開発に携わっている貴様なりの嫌味か。トレーニングをするのだろう。服を着替えろ。」
その後、急激に無口となったウェルのトレーニングに付き合い、彼にシャワーを浴びせベッドに追い払い、自身もシャワーを浴び明日の負担を軽くするため書類の整理をし、就寝する頃には夜が明けかけていた。
寝不足の頭を抱え春菊はウェルを送り届けた後廊下を歩いていた。
昨日フリークスに蹴られた腕が痛む。
骨にひびが入っているのかもしれないが、放置しておけば勝手にくっつくだろうと医者に行くのは面倒に感じた。
前方からウルフが歩いてくるのが見える。
春菊は無視を決め込みすれ違おうとした。
刹那、腕を掴まれ引き寄せられると壁に叩きつけられた。
背中に衝撃が走る。
拘束された両手首はびくともしない。
険しい目でウルフを睨む。
「離せ。仕事が遅れている。貴様のせいでな。」
「気の強い女は好みだ。何故男の格好をして軍にいる。」
ウルフが春菊の顔を覗き込んだ。
苦虫を噛み潰したように唇を歪め、瞬きをせずにウルフを射竦める。
「私の勝手だ。用がないならそこをどいてもらおう。」
硬い声が無人の廊下に響く。
薄暗い笑みをウルフが浮かべた。
春菊がこめかみを引くつかせ眉間に深く皺を刻み込む。
直後、ウルフの唇が春菊のそれに重なった。
獲物に食らいつく獣のような口付け。
唇を割り侵入した舌が春菊の咥内を蹂躙する。
歯列をなぞり舌を吸い上げ咽喉の奥を舐める執拗なキス。
貪欲なまでに飢えた獣のそれ。注ぎ込まれる唾液が顎を伝う。
角度を変え深く侵入してくる舌。
抵抗もせずになすがままにウルフを受け入れる。
壁に反芻する卑猥な水音が粘液質に鼓膜に絡みつく。
呼吸を忘れるほどの長い口付けの後、唇が離れていく。
伝う銀の糸を舌先で舐め取りウルフは勝ち誇ったような嫌みったらしい笑みを頬に広げていった。
春菊はどこまでも無表情を貫いている。
顎を流れる唾液を拭う事もウルフに蹴りを食らわす事もなく研ぎ澄まされた刃の瞳で睨みつけているだけだ。
「抵抗しないのか。それとも俺に抱かれる気になったか。」
「ふざけた事を言っていると本当に首を切断するぞ。」
春菊の視線がウルフの眼窩を抉る。
咽喉の奥で鬱屈した笑いを漏らしウルフは春菊の手首から手を離すとその髪を無造作に掴んだ。
結われた髪がばさらとなる。
春菊は一切の抵抗をせず人形のようにウルフの行動を眺めている。
髪を乱暴に引っ張られ何本かが抜け落ちた。
「お前は俺を切る事は出来ん。お前には俺が必要だ。お前自身の目的のためにな。」
最後の台詞に春菊は微かに息を呑んだ。
無表情を貫く春菊の鼓動が早くなり鼓膜の裏側に血液が集中する。
「俺が気づかなかったとでも思ったか。昨日のお前の行動は完全なる失策だ。自ら獣に咽喉を差し出すとはよほど焦っていると見える。頭と胴が離れそうになっているのはお前の方だろう。」
固唾を呑み、春菊はウルフを真正面から強くねめつける。
瞬時に絡み合っていく尖った視線。
白く延び、同色の光を放つ廊下にウルフの銀髪は保護色のようだ。
眼前にいる男は暗闇から唐突に現れ獲物に襲い掛かり、腐肉を貪る獣のような男だ。
「貴様は猜疑心が強く、疑えばすぐに被疑者と周りの関係者を皆殺す。欲しかったものが手に入れば掌を返し部下を抹殺。動乱の中からのし上がった毛沢東のようだ。」
悪態が自然と口を付いて出た。
ウルフの頬が極わずかに波打った。
掴まれた頭を乱暴に揺さぶられる。
後頭部を壁に強い力で打ち付けられた。
軽い脳震盪を起こし眩暈が起こる。
切れた後頭部から流れる赤が白い壁を細長い蛇のように伝う。
「お前達共産党は信仰を埋葬し遠ざける事で、その威光と脅威を無にしただろう。そして少数民族の文化、社会を武力を持って破壊、彼らを奴隷化し抹殺した。一つの民族に権威や優位性を持たせる社会システムが今の国政だろう。それ推し進めたのは国家主席だ。俺とどこが違う。今は動乱の時代ではない。経済も政治も表面上は安定している。だが、ただ一つの価値観の元に作られた国など腐り落ちていくだけだ。」
「それは何十年も前から続いていた習慣だ。貴様と同じにするな。反吐が出る。」
唾を吐くように春菊はウルフに反論をした。
視線はまだ定まらずにウルフを陽炎の向こうに隠してしまう。
鼓膜を突き刺すような耳鳴りが頭痛に加速をかける。
春菊は剥き出しの憎悪を真っ直ぐにウルフに注ぎ込んだ。
「貴様は姉を愛しているようだが愛情など同化の自己中心的な欲求に過ぎん。自分が愛している対象、理想的存在である者と同化する事により自分をも理想的存在に高める事が出来ると信じているに過ぎない。所詮は貴様も愚かな人間だ。」
表情を凍て付かせたウルフが春菊から手を離した。
古傷と真新しい傷が癒合し、筋肉を抉るような痛みを作り出す。
まるで汚物に触れられていたかのように春菊は捕らえられていた手首をハンカチで拭い、唇もそうした。
ウルフには何も言い返さず、存在していないかのように無視をし、しっかりとした足取りで歩き出した。
首枷を弄びながらファルコはベッドに突っ伏した。
濃厚な精液の臭いが鼻の粘膜に絡みつく。
それにむせ返り上半身を起こした。
「暇だなぁ。」
静けさに呟きが木霊した。
のっぺりとした面白みもない壁や天井を眺めていると気が滅入る。
誰もいない空間に一人残されていると行き先のない不安だけが肥大し破裂しようと身構え始める。
それを振り払おうと大きく口を開け欠伸をし、左右を見回した。
殺風景な部屋。
ベッドとテーブルが、カーペットすらひいていない剥き出しの床に置かれている。
家具はその二つだけだ。
クローゼットとバスルームの扉を閉めていると部屋の狭さが良く分かる。
倒れるようにベッドに寝転がり寝返りをうち、横を向いた。
全てが白く荒っぽい壁に覆いつくされている。
足を曲げれば壁に当たりひやりとした感触が毛細血管に伝わった。
シーツを乱すように頭を振り起き上がると素足でベッドから降りる。
足裏に伝わってくる感じたくもない感覚に身震いをした。
「脳みそ取られちまうのやだな。ロンちゃん、ふーみんを助けてくれてんのかな。発信機はふーみんの咽喉に埋め込んでるし。大丈夫だよな、多分。」
独り言はまるで木霊のように反芻し風船のように膨らんで拡散していった。
竜山は絶対に無事だとファルコは確信していた。
証拠は何もない勘でしかなかったが竜山ならば必ず生き延び史人を助けに行くはずだと。
背中で腕を組み合わせテーブルへと目を向ける。
面倒臭がりの飼い主の性格を良く表し、ロックの掛けられたコンピューターが置き去りにされている。
それへと近づき電源を入れた。
空調が回るような音を立て起動するコンピューター。
透明なキーボードと真っ青な画面のホログラフィ。
それに現れるパスワード入力画面。
「やっぱロック掛けられてる。」
パスワードを入力するよう命じるボックスの後ろでは桜吹雪が散っている。
まるで斬られた後に飛散する紅のようだ。
ファルコは適当にパスワードを入力した。
表示されるものはエラー画面。
もう一度適当な数値を入れる。
ギターの弦を引き裂いた時のような耳障りな音を立てエラー画面が表れては消える。
何度も出るエラー画面に躍起になり、キーボードを滅茶苦茶に叩いていると急にコンピューターの画面が消えた。
息を呑むファルコ。
鼓膜をすさまじい絶叫が貫く。
心臓が激しく跳ね上がった。
強烈な光が点滅をし出した。
それは警報とクラシックを奏でるように規則正しく繰り返される。
ファルコの背中が一気に冷や汗で湿った。
両耳をふさぎ無意識に頭を緩く左右に振りあとづさる。
数万匹もの蜂が戦慄くような音は一向に止まずファルコの心臓を見えないワイヤーで締め上げていく。
薄くなる画面が人の形へと変貌していく。
ゆっくりと現れたホログラフィを大きく見開いた目で凝視する。
身に着けている軍服は海軍のものだ。
短い黒髪の下で切れ長の目が牙のような光を称えている。
「あんた、誰だ。」
一歩あとづさりながらファルコは途切れがちに尋ねた。
鼓膜に響く警報機の音はもう聞こえて来ない。
眼球を動かしドアへと目を向け警備の者が扉を蹴破らないか鼓動を早くする。
渇いていく咽喉の粘膜が痛み出す。
ホログラフィの兵士が足を組みファルコを舐めるように見た。
ファルコの背中の汗がより冷たくなる。
「俺はホエール上等兵。白虎部隊のものだ。」
「海軍が俺に何の用だ。」
真正面からホエールを強く睨んだ。
両手を肩より少し高い位置で振り、ホエールは敵意がない事を示そうとする。
それが怪しく思えファルコは唇を噛むともう一歩後退をした。
「まぁ、待て。自己紹介がまだ終わっていないぞ。俺は鯨の遺伝子を三十五パーセント有するフリークスだ。もちろん、君と同じく白い狼の思想に傾倒し賛同した者。何故か。彼の思想は機能主義に基づく資本主義と共産主義の同一化及び進化した人間つまり新人類としての俺達が旧人類を導くというものだ。そこにはれっきとした。」
「口ばっかだろ。」
まくし立てるように告げるホエールに脳から捻り出した悪態をつく。
一度芽を出した不信感は独りでに成長を続けいつしかファルコの脳へと根を張ってしまった。
凍った人形のようになっていくファルコの表情。
冷ややかなファルコの口調をホエールは鼻で冷笑した。
「理想を持たずロボットのように政府に従うのもどうかと思うが。」
湖面に張った氷に投石したようにファルコの顔に皺が寄り、それは憎しみに鬱屈する。
まるで放置された爛れた火傷にナイフを突き立てられたようだ。
あらん限りの牙を剥き出し咆哮する。
「るっせぇ!俺はな、政府の考えにもウルフの考えにも賛成出来ねぇんだ!」
何も考えず剥き出しの感情で足を思い切り床に打ちつけた。
衝撃が膝に走り大たい骨まで痺れさせるがファルコは歯を剥き出し咽喉から絞るような唸り声を出す。
ホエールの冷やかな眼差しは変わる事なくファルコに絡み付き身動きを取れないよう拘束している。
罠に掛かった野生動物の最後の抵抗のようにファルコは声にならぬ唸り声を上げ続け、ホエールの眼窩を貫き頭蓋骨の裏側を抉るように睨み続けている。
「それは君が彼の計画の元で犠牲になろうとしているからだろうな。いわば君は来たるべき時代のための人身御供と言った所か。」
「俺だけじゃねぇ。誰かを犠牲にしなければ実現出来ない未来ならはなっからない方が良いんだ。」
無意識に握り締めた拳の中で五指の爪が掌に食い込み柔らかな皮膚を裂いた。
粘液質な蛇のように這い出した紅が指の間から滴り落ちる。
「俺はもうウルフを信じない。あの男は俺と軍曹を利用した。中隊長も殺した。他にも殺された奴らがいるんじゃないか。何が少数民族を守るだ。ふざけんな。」
ホエールの唇の片端が温度を感じさせずに吊り上った。
悪寒がファルコの背筋を貫いた。
釘を背中から脳髄まで一気に打ち込まれたような悪寒だ。
「革命というものはすべからく血を伴うものだ。血の流れない革命など例外中の例外だ。」
わずかな抵抗がファルコの咽喉から漏れる。
「俺が望んでいる未来は革命じゃない。どんな人間だって民族だって一人の人間として尊重されて差別されたり殺されたりするのに怯える事のない未来だ。」
急激な沈黙は病魔のように感染する。
檻のような部屋は温度も色も変わらずに全ての出口を白い闇に隠し、道をふさいでいる。
時計を有しないその空間は粘液質に膨張していく。
風船に針を入れたのはホエールだった。
「余り長い事接続していてもばれる恐れがある。必要な時にまたコンタクトを取るからそのつもりで。」
太い糸を引き千切るような音の後、ホログラフィは消え去った。
ファルコはベッドへと手を伸ばし消えたホログラフィめがけ枕を投げた。
枕はコンピューターに当たり、床に落ちる。
傷つき小さな悲鳴を上げた床。
浅く息を呑んだ後、コンピューターが壊れていないかを確かめ呟く。
「馬鹿じゃねぇの。」
誰がとは言わなかった。
コンピューターを机に戻し床に胡坐を掻いた。
冷たさがじかに伝わってくる。
枕を手繰り寄せ潰すように抱き締めた。
ぬいぐるみのような柔らかさが微小な落ち着きを取り戻させる。
唇に牙を立てファルコは枕に顔を埋めた。
「俺は民族浄化を、止めたかったんだ。これじゃ本末転倒だ。ちくしょう。この状態じゃ何も出来ない。脳を取られたら何もかもおしまいだ。」
愚かさを嘆き悲しみ、頭を抱える。
滑り落ちた枕は膝を慰めている。
静寂が鼓膜の裏に浸透し渦を巻くような耳鳴りを引き起こさせた。
打ちひしがれ無力さを噛み締めていたファルコは突如はっと頭を挙げコンピューターへと接近した。
膝立ちとなりマウスに触れる。
警報は鳴らない。
瞬かない強い眼でぐっとコンビューターを見詰めファルコは自身に言い聞かせる。
「いや、まだ望みはある。何とか軍曹と連絡を取るんだ。あの人ならきっと。きっと。」
ファルコはコンピューターを立ち上げパスワードを破ろうと画面を睨み付けた。
今の自分が何を成し遂げようとしているのか見失いそうになる。
ファルコは大きくかぶりを振り自らの頬を一発拳で殴った。
痛みと衝撃に奥歯を噛み締め咥内に溜まった粘つく血を床に吐き出すとキーボードへと指を置いた。
BackNext

スポンサーサイト